存在の羽音

気ままに。自分と向き合う場所。自分を見つける場所。チラシ裏の独白。

2月 これからのことに思いを巡らす

 

2月ですね。

ひと月1回は更新しようと思っているので、

書く次第でございます。

 

1月の半ばから、2月の終わりまで悠々自適な有休消化中でございます。

新しい住処と次の生活の当てを手にしたり準備は着々と行ってはいるのですが、

たまにはゆっくりするのもいいものです。

今までさんざんゆっくりしてきたにも関わらず、

やはり毎日働いてるか、自由に時間を使っているかでは、心の余裕が変わります。

 

この休みの間に、さまざま、自分の関わってきた人たちに連絡を取り、会える人には会う予定でいます。もともと私はとても人間関係が希薄な人間で、移り住むとともに、関係は途絶え、おさらばしていたのですが、少し大人になったのか人との関わりの大切さを感じています。

そんなわけで兄ともおそらく8年振りに会うのですが、何を話してよいのやら、どう話したらよいのやら、わかりません。私にはそもそも家族への関心があまりないのです。ただ互いに住んでいた同居人のような感覚。それでも会おうと思ったのは、私の心が前を向くからなのでしょう。何事も、どうにかなります。

 

母上とも2年ぶりに電話をしました。

自分が年を経れば経るほど、私は私の価値観がより強固に象られていき互いの生きる世界の違いを思わずにはいれませんが、それも致し方ないでしょう。生きてきた時代と価値観が異なるのですから。なにも親の気持ちを無下にする気はないのです。自分が自らの生活をまかなうようになってから、母が行っていた家事や、毎日のお弁当、さまざまな記憶は感謝となって心に湧いてきます。それでも電話の端々から老いは人の視野を狭くするのだな、と感じたのでした。人間は積み重ねが重くなるほどに、生きてきたようにしか生きられなくなる。

 

 

 

これからの世の中に考えを巡らすと、物事はより合理的で効率的なものを追い求めていきます。技術進歩は果てることなく、世界を変え続ける。それはそれで仕方のないことで、人が望む世界なのですから構わないでしょう。

 私は合理性が進めば進むほど、非合理性も強調されていくと考えています。例えば既製品のマフラーがあったとして、それはたしかに愛する者の手織りのマフラーより機能性、デザイン性、価格に優れるかもしれません。しかし我々は愛する者の手織りのマフラーを捨てるでしょうか。

 カンタン・メイヤスーの描く数式と物理現象によって解釈される世界よりも、マルクスガブリエルが述べるすべての実在の許容、新実在論の方が私には身に合います。それは私自身が人間を物理現象、データには還元しえないものとして守りたいからなのです。今この時の経験という実感は、何物にも代えがたい生の燃焼であるはずです。

 

 

……私に信仰はありませんが、完全な物質主義でもないらしい。