存在の羽音

気ままに。自分と向き合う場所。自分を見つける場所。チラシ裏の独白。

理由

 

 今日も今日とてちょい呑み過ぎ。ブランデー200mlくらいですかね。なかなかフラフラ。なにはともあれ、このブログはありのままの自分の模写をしようと思って始めました。気ままに、何も気負わず、更新にも特に制限なく、月1程度でもいいや、と思ってました。続けられただけ儲けモノです。

 普段、ありのままの自分なんて、なかなかいないものです。誰に読まれるわけでもない、ただの自己満足な書留め。それがこのブログ。流れる思考そのままに、書き連ねて書きなぐっていくチラシ裏。そうして自分の姿がすこし見えたらよいなと思って1年が経ちましたね。

 そんなこんなでこのページの大半は酔って書いてることが多くて、普段はもう少し真面目ですし、中二っぽさは社会性の中では出さないですし、のらりくらりと生きています。

 

 

 

 

 存在者は存在しているが、存在そのものは存在していない。

 

 

 昨日はこの言葉が響きました。ここに哲学の限界を見たような気がします。歴史というものが暗闇の部屋の中で発掘されたものを灯りとして照らすならば、哲学は言葉という灯りで暗闇を照らす。だから言葉の限界もある。それが思考の限界。限界の外には神秘がある。限界という境界線は、差異であるわけだから、差異そのものは、それ以上分解できない。説明できない。

 

 まぁこの世が全て数値化されるわけでもなく、物事と物事の関係性がある以上哲学がなくなることはないでしょうけど、哲学は決して万能な魔法の杖ではなく、哲学にもできないことがあるのだと、思ったのでした。

 

 ちゃんちゃん