存在の羽音

気ままに。自分と向き合う場所。自分を見つける場所。チラシ裏の独白。

日暮

 

 ご無沙汰している。書くことは自分と向き合うこと。今晩は、わたし。何を書こうかしら。何が心を作っているのかしら。その対象が見えるから、わたしたちは心としてそれを捉える。先日、ひさびさに手紙を書いた。慣れないものはなかなかやり難いものだ。書くことを決めないで書くことは難しい。話にまとまりがない。そう、今ただ流れるままに文章を書くのと同じように。

 今日森を歩いていると、不気味に思った。それは自分の未知と、自己認識の欠如からくる。何の鳴き声かわからぬものが鳴くから不気味なのだ。生えている植物が見慣れぬものだから、不気味なのだ。そして不気味から自分という拠りどころを忘れてしまって、森が怖くなるのだ。人は拠りどころがあれば、安定する。だから信仰は強い。ただそこへ至れるかどうかはその人の生き方による。ある程度信仰に染まらぬ生き方をした者は論理を超えたものを受け入れることはできない。ただ経験により、もはや拠りどころを亡くしたものは信仰に叩き落されることがある。そうしなければ生きてはいけぬからだ。深い悲嘆がなければ、光を見上げることはない。

 精神的な要素として、人が作り上げる神はたしかにある。あるいは可能性を逸脱した脇道に神は座っているのかもしれない。ただ無防備に神を求めるならば、その信仰は紙屑のようであり、一雨降れば溶けてなくなってしまうだろう。