存在の羽音

気ままに。自分と向き合う場所。自分を見つける場所。チラシ裏の独白。

つらつらと。

 人間には食欲、睡眠、性欲、の三大欲求があると言われるが、それらが時と場合に応じて満たされるのはなぜか、という問いを相方から受けた。私が思うに、“時と場合”という表現には基準、尺度が含まれており、それは社会性ならびに文明、他者存在、自己と自己を自己と認識する他‐自存在、から見いだされるのかもしれない。それらの物差しを形成することにより、羞恥に似た感覚や、適切でない場合の違和感を生むのだろう。人があれこれ考えず、夢中になって欲求解消に没頭していれば、時と場合など考えないであろう。ここには自己の内省の働きがあるように思う。

 

 

 前述のこととは関係なしに、私に今ある欲求は、普段から常飲している葉巻でも買い込んで南の島にでもフラフラと出かけて行こうかと思っている。しかし道楽して暮らせるほど裕福なわけではないので生活の充ては見つけねばならない。これが、別段苦労しているわけではないが、想像していたより簡単ではなかった。まぁ機会があれば行けるものだし、縁がなければ行けないのだろう。気持ちは気長に、されど行動は迅速に。行動しないことには、見えてこないものもある。やってみてダメなら次を考えればいい。よほどのことでなければ死にはしない。私はワイワイはしゃいで盛り上がる人間ではないが、気持ちは明るい人間のつもりだ。おそらくは、よく泣きよく笑う母が言っていた「毎日健康で、ご飯が食べられて、あったかい布団で寝られれば、それが幸せ」という言葉が、じわじわと身に染みているのだろう。当時の私は学生の時分であったからそんなこと意にせず、あれが欲しい、これが欲しいと考えていたけれども(苦笑)いざ自分で生活してみて、何が大切か日々考えて生きていると、自分の納得する生き方は身近にあるものだなぁと感じている。居心地の良さはそこかしこに散らばっている。混じりけのない簡素な生き方をしたいものである。