存在の羽音

気ままに。自分と向き合う場所。自分を見つける場所。チラシ裏の独白。

私的混沌

 自分が何者かなんて、簡単に応えられるものではない。聖書もコーランも元は一つでも多くの解釈を呼び込み、現代まで膨大な数の概念の階層を構築しているだろう。聖書やコーランに及ばずとも自分という在り様、結果、事実はひとつにしてもそれを読み取るのは人であるのだから、たくさんの見方が当然生まれるだろう。そして読み手の感情も加わり、理解される。

 世の中にはたくさんの変わり者がいることだろう。変わっているってなんだろう。今まで見てきた人とは違うってなんだ。よく変わっているという評は受けるけど、わたし程度の変わり者なんてたいしたことない。もっともっと個性的な人はたーくさんいるし、わたしにはその単一の光がまぶしく思える。ある程度社会通念に埋没しながらも、それでも他者とは変わった在り方をしたい、と願う自分がいる。自分に素直に、自分を自由に、自分を表現したら何が生まれるのか。本当の本当にありのままに生きるというのはなかなか困難な道である。制限は常にかかる。その限定の中において、自身を表現した結果がその都度その都度持続的に格率化された自分である。

 そう思いながらも自分の行く末が見えないでいる。どこに行きたい。どうしたい。何が欲しい。本読みたい。屋根が欲しい。あったかい家。ご飯は食べる。正直、これらが満たされればとりあえずは文句がない。他は余分であり、あるに越したことはないが、なければないで構わない。だから私には世間一般的な向上心がない。生活できればいい。本当に現代の日本は贅沢だなぁと思う。欲深だなぁと。家もなく、ご飯にありつけず、勉強もできず、昼夜身体を酷使し、命の危険にさらされ、手足も満足になく、という状況がゴロゴロとある。日本でとりあえず毎日安定して生活ができれば、それだけで大変恵まれていると感じる。困ったらとりあえず仕事できる。なにかにはありつける。手段がある。たくさんの人たちが頑張っているからこそ、これらのことが成り立つのだろうけど。わたしはそれらにあやかっているだけなのだろうけど。正直満たされているのだ…。だから好きなことが出来る。