存在の羽音

気ままに。自分と向き合う場所。自分を見つける場所。チラシ裏の独白。

食べる

 人は毎日何らかのものを食べて肉体を維持している。わざわざ肉体と精神とに分ける必要もないが、すなわち心もまた食べることによって成り立っている。毎日毎日、食べるということに対して、なんらの違和感もなく、時間が来れば、あるいはお腹が空けば人は食事をする。つまり食べるということは生きるということと密接に関わっている。お腹が空けば、気付くと人は何を食べるのかを考えている。わたしにとってこれは少し不思議に感じる現象だ。人は常に死の可能性を、他のどの可能性よりも先んじて持っているが、それについて考えることはない。いつ死ぬかわからない、常に差し迫った可能性であるにも関わらず、それよりまず食うことを考えているのである。あるいは、そうでなくとも他にさまざま人は雑多な感情を抱く。願望もまた多くあろう。あれがしたい、これがしたい、もっと幸福になりたい、などなど…。そうであるにも関わらず、それらをすべて忘却の彼方へと追いやって、お腹さえ空けば、腹が膨れることを考えるのである。それが人間である 。埴谷雄高の「死霊」という小説の中で、イエスキリストが、食べた魚に訴えられる場面がある。散々人への愛を説いておきながら、お前は毎日どれだけの死を積み重ねてきたのか、と。奇蹟によってお前は、腹を満たす喜びと、同時に喰われるものたちの死を植え付けたのだと。スーパーで肉になって売られ、あるいは食卓にすでに食事として並べられた料理にたいし、現代ではほとんどの人がなにも思わずそれらを口にする。命がうんたらかんたらと、よく言われる話である。魚が首を落とされるのと、人が首を落とされる違いは、人にとって差はあるが、魚にしてみれば同じことである。昔よりいっそう現代人は生命から遠ざかっているのではないだろうか。生命観といえるかもしれない。宇宙の時の流れの一点にわれわれは存在している。あらゆるものは変化のなかにある。変化を生命ととらえるならば、われわれは宇宙生命のなかにあるのである。死は主観のなかにおいて意味づけを行い、大切に持て囃されるが、宇宙の流れのなかでは、それは水が液体から熱せられ蒸発し気体となるように、状態変化の一面でしかない。食べるということ、生きるということに、 俯瞰の視座を与え、日常を過ごすうえで心に余裕ができれば、と思っている。