存在の羽音

気ままに。自分と向き合う場所。自分を見つける場所。チラシ裏の独白。

書く

 

 「書く」という行為は自己の内奥への働きかけであると同時に、他者存在への志向を呼び込む。なぜならば「書く」という行為は自己において客観に位置するからである。感じたもの、思考に至る前の混沌の状態を直接的に表すことはできない。それは自己と他者との間にある絶対的な隔たりである。自己の経験を他者に伝えることはできない。自分自身でさえ二度同じ経験をすることはない。われわれは常に変化の中にあるからだ。川の流れの中にある葉、あるいはいち水分子は、二度と同じ場に留まることはない。遠い昔インドの北で覚者が生まれた。しかし彼の悟りを他者が同じように体験することはない。彼の悟りは彼のものであり、経験であり、彼以外には適応されず、そして彼自身においてもなお、悟ったと同時にその経験は流れていくのである。思考に流れる言葉は思考の場に乗っかることで、もはや対象をありのままに捉えることはできない。数多の解釈を呼び込むことしかできない。

 「書く」という行為は思考の記述ではあるが思考そのものではない。「書く」に対し思考はイメージの模倣であり、素描である。「書く」ということにより、素描はくっきりと線描きされ、自身から切り離され、対象化する。幾たびの逡巡を生み、思考の再現が、現在の思考と同時並列で行われる。そもそも経験の解釈そのものが、解釈と経験が同時並列で成り立つものである。それは人の生の一面を表している。「書く」という行為もまた生の場において成り立つものであるから、包括されるのも当然のことである。